再生医療シリーズ~脊髄損傷~
再生医療について
iPS細胞という言葉を一度は聞いたことがあるという方が多いのではないでしょうか。
iPS細胞は2006年に京都大学の山中伸弥教授らにより世界で初めて作成されました。その功績により山中伸弥教授は2012年にノーベル医学賞・生理学賞を受賞されています。
iPS細胞は英語ではinduced pluripotent stem cell、日本語では人工多能性幹細胞のことであり、様々な組織に分化する能力やほぼ無限に増殖する能力を有しています。この性質を用いて、今研究が進められているのが再生医療です。再生医療とは、病気や怪我により失われた機能を回復させることを目的とした治療法です。iPS細胞が発見されて以来、様々な研究がされており、各臓器において実臨床への応用が期待されています。今日はそのなかでも脊髄損傷について話を進めていきたいと思います。
脊髄損傷について
脊髄損傷とは名前の通り、交通事故や転倒、転落などにより脊椎が脱臼、骨折し脊髄が損傷することをさします。日本では年間約4000~5000人が新規に発症しており、患者の総数は10万人~20万人とされています。以前と比べると脊髄損傷の原因として、転倒が占める割合が増えており、今後高齢化による脊髄損傷の患者の増加が懸念されています。
脊髄に存在する神経は身体の運動や感覚だけでなく排尿や排便、呼吸の機能を支配しています。また、脊髄は解剖学的に頚髄、胸髄、腰髄、仙髄、尾髄に分けられており、各部位に存在する神経ごとに支配している機能が異なります。そのため、損傷した部位ごとに異なる症状が出現します。
損傷の程度により完全損傷と不完全損傷に分けられます。完全損傷は損傷した部位の神経の機能が完全に失われてしまいます。不完全損傷では脊髄の機能の一部が失われます。機能がどれだけ温存されるかは損傷の程度により異なります。
脊髄損傷の従来の治療法
損傷した神経の機能を回復させることは困難であると考えられています。そのため、脊髄損傷に対する従来の治療法は対処療法がメインとなっています。
1つは手術療法があります。脊髄周辺に存在する血液や骨片が脊髄を圧迫している場合にそれらを除去することで、症状の更なる増悪を防ぎます。また、脱臼などにより脊椎が不安定であり、今後脊髄が損傷される可能性がある場合は脊椎を固定する場合もあります。いずれにしても、脊髄の神経機能を回復させるためではなく、症状の増悪を防ぐための治療となります。
2つ目にリハビリテーションがあります。急性期では脊髄損傷に伴う合併症の予防がメインとなります。例えば、寝たきりの時間が長くなってしまうため褥瘡、いわゆる床ずれや関節が固まってしまう関節拘縮が合併症として問題となります。それらを防ぐために体位変換や関節可動域訓練といったリハビリテーションが重要になっています。
急性期を乗り越えた回復期でのリハビリテーションは残存機能に応じて行われます。
残存機能の中で出来るだけ自立して生活を行えるようにするために筋力トレーニングなどを行います。
再生医療による脊髄損傷への応用
従来の治療法は対処療法に過ぎないため、脊髄損傷による症状を完治させるのは大変困難であると考えられてきました。そこで、脊髄損傷に対する根本的な治療として注目を浴びているのが再生医療です。
脊髄損傷に対する再生医療で紹介したい研究が慶應義塾大学医学部整形外科を中心に行われているものです。これはiPS細胞から作成した神経前駆細胞という神経のもととなる細胞を、適切なタイミングで損傷した脊髄に移植することにより、失われた運動機能が回復するというものです。すでにネズミやサルまどを対象にした動物実験では、神経前駆細胞の移植により神経再生と運動機能の回復が認められています。
そして2021年の12月より患者さんに対してヒトiPS細胞由来神経前駆細胞の細胞移植が行われました。対象となるのは第3/4頸椎から第10胸椎の部位を損傷し、かつ受傷後14~28日の亜急性期脊髄損傷の患者さんです。細胞移植は全身麻酔下のもとで行われます。脊髄損傷に対する神経前駆細胞の移植というのは世界でも初めての手法であるため、この研究は日本だけでなく世界中から注目を浴びております。本研究の目的は移植する細胞や移植方法の安全性を確かめるものですが、もしかしたら治療の有効性も認められるかもしれません。
脊髄損傷に対する再生医療の今後
脊髄損傷に限らず、各分野で再生医療の研究及び実用化が進められていますが、脊髄損傷はその中でも特に注目を浴びている分野の1つです。
先述したように、従来の脊髄損傷の治療は症状がこれ以上悪くならないようにする治療法であり、根本的な解決にはなりえません。しかし、再生医療により失った神経の機能を取り戻すことが出来れば、脊髄損傷を根本から解決することが出来るようになるのではないかと期待されています。高齢化がすすむ日本では脊髄損傷の患者さんは増えており、またほとんどの方は社会復帰が難しい状況です。そのような方達にとって再生医療は希望の1つになっているのではないかと思います。
しかし、実用化には安全面だけでなく幾つかの問題が存在します。
ひとつはコスト面です。新規の治療は基本的に費用が高いことが多く、再生医療もその例外ではありません。例えば、再生医療で実用化が近づきつつある臨床研究の1つに加齢黄斑変性症に対するものがあります。コスト面では、患者自身の細胞からiPS細胞を作成した場合は3000万~1億円、患者以外の細胞からiPS細胞を作成した場合でも1000万かかるとされています。脊髄損傷に対する再生医療はまだ臨床研究の段階であるため、具体的なコストは分かりませんが、かなり高額になることは間違いありません。日本において医療費の増大が問題となっているので、現状では多くの患者さんが再生医療を受けるのは難しいと考えられます。
* 加齢黄斑変性症:網膜のほぼ中央にある黄斑というところに異常な老化現象が起きることで視力や視野といった視機能が低下する病気。
まとめ
脊髄損傷に対する再生医療について話を進めてきました。
対処療法しかすることの出来なかった脊髄損傷を根本的に治療できるかもしれないという可能性を再生医療は秘めており、非常に期待されています。コスト面など解決しなければならない問題もありますが、今後の医療を大きく変えうる技術の1つです。今後の研究の進展を待ちたいと思います。